「死ぬ事が良いのだろうか、それとも医学により生きている事が良いのか」
ほとんどの人はどんな事をしても生きている方が良いと答えれであろう。
しかし、僕の経験上、生きている方が良いという判断は
あくまでも当人の判断ではなく、周囲のある意味、
自己中心的な判断なのではないかと考えるようになっている。
ほとんどの人は当人は死ぬ事で「楽」になるかもしれないけれど、
残された親族や家族に対して激しい悲しみや心の傷を残すことになるから
生きていた方が良いという理屈だろう。
しかし(僕のように障害者となっても)生きていたからといって、
本当に親族や家族を悲しませず、心の傷を与えないでいる事は本当に出来るのだろうか?
僕はいわゆる現代医学によって脳出血起こしても、
現在でも生きていることができている。
しかし、生きているとはいっても僕は本来いわゆる大黒柱である。そ
れは家族にとっても両親にとっても大きな柱の役割をしていたと思う。
その大きな柱が死んでしまう事は確かに残された人にとっては
悲しいことであろう。
しかし、その大黒柱は現代医療によって今、生かされているが、
それはあくまでも障害者としてである
障害者と言うものは過去の健常者の時のほど経済的柱になるなることは
ほとんど不可能である
僕は障害者になった事によって自分の会社を倒産させてしまったし、
そのせいで、当初は収入を無一文になってしまったたとえ生きていたとしても、
そのような状況に陥ってしまったときには、様々な問題が起こるものである
もちろん障害者になってしまった当初は新しく会社を立ち上げ直すなどということは
考えもしなかったので殆どの障害者と同じようにハローワークで
障害者枠の求人を探して仕事を探したものである。
しかし、残念ながら企業が障害者枠として求人するのはあくまでも法律的な義務からであって、
決して積極的に障害者雇用をしたいとは考えていないということを理解した
なぜなら、ほとんどが最低賃金のアルバイトのような仕事ばかりだったからだ。
そんなようなことだから当然収入は激減する。
だから最低賃金でアルバイトのような仕事をするくらいなら、
こんな半身不随の身体であっても自分で事業を興した方がよりはマシだと重い個人事業を立ち上げた
もちろんこんな半身不随の身体で個人事業を立ち上げでも家族が満足するほど
大して儲けられるものではない。
そのため、それがまた親族や家族におけるトラブルの種となるのだ。
障害者になった当初は家族や親族はいたわってくれる姿勢を見せてくれてくれたけど、
時が経つにつれて、やはり大黒柱としての役割を求めてくるようになってくるのだ。
そうなると、家族や親族に不満が溜まるようになってくる
それは不幸の元だと思うようになっている
もし脳出血を起こした時に死んでいたら、
おそらく僕の過去の健常者だった時の僕ことを美化して
「惜しい人を亡くした」とか
「生きていればすごい人間になっていただろうに」 などと、
美しい思い出と生きていたら夢のような将来を実現できただろうなどと、
いわゆる幸せな思いを親族や家族はしていたかもしれないと思う。
しかし、実際に障害者として生きている(生かされている)と
大した稼ぎもない介護もしくは支援をしなければならない対象になってしまい、
それがまた親族ら家族の負担になってしまい、トラブルの種となるのだ。
僕も時々こんなことになるようであれば、
あの時死んでいればよかったなどと思うこともある。
そんなことを考えると大病を患ったときには
医学により生き残る事が良いのか、
それとも死んでしまった方が良いのかと疑問に思ってしまう。
その結果、やはりそのようなときには、
現実的には死んでしまった方が自分にとっても周囲の人にとっても幸せ
(自分にとっては障害者として惨めに生きる辛さから解放されることによる幸せ)
になっていたのではないかと思うのだ