最近思うんだけど・・
特にTwitter・・
僕はTwitterみたいな短い文章で考えをキチンと伝えられる訳がないと
思うからTwitterはキライで全くやらなしんだけど・・
気になるのは
いわゆる「公人」は実名で発言して
不用意な発言をするとも猛烈は批判にさらされる
でもその批判する方はほとんどHN(ハンドルネーム)
つまり基本的に匿名・・
これってズルいんじゃない?
実名を出している「公人」と不平等では?
ネット上の情報ってほとんど全てがこんなHNからの発信情報だから
虚報のような感じがする
その最大に理由は情報発信者のほとんどがHN(ハンドルネーム)か匿名
だから情報に確信が持てない。
これっていいのかな・・?
僕は少なくとも(自慢するつもりじゃないけど)
ここではすべて赤裸々に自分をディスクローズしているつもり
たぶん僕の名前でGoogleMAPで検索すると僕の住まいまで分かる
あ!猫画が隣の写ってるわ・・笑
でも気にしてない
なんで皆実名が怖いのだろう??
僕は障害者だけど隠すつもりも全くない
なぜって、、
障害者ということが別に恥ずべきことでもないし
そもそも後ろめたい事などひとつもないし
僕を襲いにくるヤツもいないだろう
巨万の財産があるわけでもないし・・笑
それよりも
ネットの情報の信頼性が発信者が実名じゃないことが多いにより
信頼性を損なわれていることの方が気になる
あの実名が基本だというFACEBOOKでさえも結構HNが多いよねぇ・・
一番気になるのは
小中学生などでも問題になっているようだけど
攻撃、または誹謗中傷(批判?)される側が実名公開されちゃって
攻撃、または誹謗中傷(批判?)する側が匿名またはHNで名前を隠すパターンが多い
ことだ
これってあまりに卑怯じゃない?
発言に責任を持たないネットユーザー
中国で再生可能エネルギーの導入が急成長しているという事実
2013年における中国の自然エネルギーの発電容量は3億7800万kWもあったという
(雑誌 環境ビジネスより)
更に驚くべきことは2013年は太陽光発電についても記録的な成長の年であり、
中国では
なんと1130万kWが新設されたという!
2010年の86万kWから2013年には
なんと1479万kWへと17倍になっているらしい・・
(注:日本の2013年末の累積導入量は、風力が約267万kW、太陽光が約1245万kW)
この数字をみて思うのは
(いつのまにか)日本より中国の方が
「再生可能エネルギー先進国」
になってしまっているのではないか
ということだ
振り返って日本をみると
声高に再生可能エネルギー電力全量固定買取制度を民主党がスタートさせたけど
自民党になって原発問題をうやむやにしてしまい
再生可能エネルギーの普及が鈍化しているのではないか
中国はPM2.5による大気汚染の問題等で日本は中国を馬鹿にしている風潮にあるように
思えるけど、
実は中国政府は本当は必死なんじゃないだろうか・・
だから以下の記事のような事が起こるのではないだろうか
http://secret.ameba.jp/ecoshun/amemberentry-11819872044.html
とも思ったりもする
個々の技術いおいてはまだまだ日本が優位だけれど、
なんか最近
日本は日本の技術に驕っているような気がする・・
日本の技術はスゴイ・・という驕りが
将来足を引っ張らなければよいか・・
国民の意識もまだまだ低いように(僕は)感じる・・
驕る日本は久しからず・・
にならなければよいが・・
そうならないためにも
僕も微力かもしれないけど力になれればと思う
こんなところにも世相が反映・・仮面ライダー
今日は肩の力を抜いた記事で・・
息子といっしょに映画を観に行かされた・・
それも仮面ライダー・・
タイトルが
昭和ライダーvs平成ライダーとか・・
懐かしい本郷猛こと藤岡弘さんが出演していた
僕が小学校2年生のときに
仮面ライダーは放映開始だから
僕も案の定嵌っていたから懐かしい
それにしてもこんなところにも世相が反映しているんだ・・
って思ったのは
変身シーン
なんと今の仮面ライダー(平成ライダーさんたち)の変身は淡泊なことか・・笑
その上、USBメモリーで変身できるなんて
こんな風に・・
USBメモリー差し込んで軽く「変身!」・・
時代だな・・
藤岡弘さんはめっちゃ気合いの入った図太い声で
へん しん・・とー!
とかって
身体中に力は入って
変身やってたけど・・
今の時代には合わないだろうな・・(^_^;)
それにしても藤岡弘さん、
若い俳優さんに混じって奮闘していたけど
どう頑張っても歳には勝てない・・顔も頬が・・ふくらんじゃって
若いときはもう少し細おもてだったのにね
映画館の大画面でアップにされると
若い俳優さんに比べると妙に毛穴も大きくて気になって仕方無かった・・
最後にバイクに乗って離れるシーンも
なぜかバイクが小さく感じたのは
藤岡弘さんが横幅が大きくなちゃった分
小さく見えただけなんだろうな・・
やっぱり若き日の藤岡弘さんスマートだし
かっこいいよ(笑)
皆歳とるんだね~
私は意見を言う
私は意見を言う
それはその意見が良い意見だからではない。
その意見が自分自身の意見だからだ。
良い意見を言うだけならそれは単なる迎合であり
妥協に過ぎない。
妥協や迎合からは何も生まれない
たとえ障害者であっても
妥協や迎合だけはしたくない
しないつもりだ
本当の味方というものは・・
本当の味方の果たすべき役割は、
間違っているときにも味方することである
正しいときにはだれだって味方になってくれる。
それは
決して「味方の間違いを肯定する」ということではなく
「味方を守る」ということ以外のなにものでもないと思う
「味方(従業員)の間違い」は守ったあとで修正してやればそれでいい
それが社長の仕事だと僕は少なくとも思っていたつもりだ
まもなく静岡県裾野市の40区画も完売する勢いだ・・
すごいものである
静岡県裾野市の低圧50Kwの太陽光発電所40区画も
まもなく完売する勢いだ・・
那須烏山の40区画は発売開始後、なんと2週間で完売してしまった。
パートナーの販売力には頭が下がる思いである
それもこれも丁寧、且つキチンとした太陽光発電所作りと対応のたまものだと思う
パートナーにはまず私心が少ない。
パートナーとお客さんのメールのやりとりを見ていても
本当にお客さんのことを思っていることが文章ににじみでている
だからお客さんもおのずと信頼を寄せる・・という好循環になっている
それにしても強欲なお客さんもいるものだ・・
利回りをもっと高く、もっと高くできないのかと
太陽光発電所の設備のメンテナンス機能などを削除してくれとか
挙句、中国の安価な(どこの馬の骨かわからんような)
メーカーの安価なパネルに替えてくれと
強引に要求してくるような客もいる・・
こういう客が所詮はお金が目当てだ・・
こうなると我々も気が入らない・・
我々は最高の発電効率が出て、且つ20年間設備が耐久するよう
様々な苦工夫をしているにも関わらず、
目先の利益にか考えない企業(人)も非常に多いのはとても残念だ・・
そうはい言っても経済的論理で
太陽光発電の普及をしようとしているのだから
仕方がないといえば、仕方がないのだけれど・・
そうはいっても解せないときがある。
それはさておき静岡県裾野市が売り切れば
次は同じ静岡の三島に600区画だ
こちらは日本の大手パネルメーカーS社と共同開発する太陽光発電所だ
この次はなんと青森・・
まあ次から次へとよくあらたな太陽光発電所を開発していくものだ・・
太陽光発電投資はとっても安全な(リスクの明確な)投資だと思う
僕が今やっている分譲型太陽光発電への投資をする方々は
世の中にさまざまな投資話(案件)がある中でも
とっても安全な投資だと思う
「安全」というと語弊があるけど
正しくは(最もなリスクの明確な)投資だと思う
なぜなら投資といえば
そのほとんどが(超大金持ちでもない限り)退職金程度の投資先は
いわゆる「投資信託」ではないだろうか
「投資信託」なんて所詮ファンドマネージャーにお金を預けて
資産運用を任せるだけ・・
でも、そのファンドマネジャーが何をするか・・
株式や債券などのいわゆる「証券」を購入するのだ
そもそも
この
「証券」自体信用できない・・
と僕は思っている
なぜなら
この「証券」というやつは
そこに潜む「リスク」を覆い隠してしまいかねない
と思っているからだ
あのリーマンショックを引き起こした根源も
「リスク」を隠した「証券」だったからだ
だって
そもそも株式だって本来なら企業業績と連動すべきもの
つまり
「企業(事業)業績が上がれば株式も上がり、
企業(事業)業績が下がれば株式も下がる」
はず・・
でも実際は違う。
株価はの価値は全く違うところで動いている
株価は期待値で動くため、
業績が良くても期待値に届かなければ売られてしまうのだ。
つまり株価は株式需給に連動するのだ。
つまり買いたい人が多ければ上がり、
売りたい人が多ければ下がるだけ
なのだ
企業(事業)業績とは全く関係がない
こんないい加減なものを(他人のお金を使って)買って
それで信用してくれ「だから(信託)という」といっている
だから
正直リスクは全く見えない・・
これが
その他の債権などの証券になるともっとひどい
その最悪なものだったのが
あのサブプライムローンを証券化した債権だったと思う
ローンの証券化と言っても
金融に疎い僕はピンとこなかったのだが
最近ようやく理解できてきた
僕なりの理解はこうだ
<Aさんのローンを証券化する場合>
ある日、Aさんは新しい飲食店を開業しようと計画を立てました。
ですが、Aさんには手持ちの資金がありません。
新しい飲食店を開業するためには、1.000万円が必要なのです。
困ったAさんは、資金を人から集めることにしました。
Aさんは
「今、お金を出資してくれれば、
飲食店で儲けた後に配当をつけて返します。」
Aさんは、飲食店経営の達人で、信頼されていました。
1口100万円の出資話を作ったところ、出資者が10人集まり、
Aさんの手元には、見事、1.000万円が集まりました。
その後、Aさんは飲食店を開業し、大繁盛させました。
Aさんは、約束通り、出資者に配当を渡します。
出資者は、配当50万円(元金合わせて150万円)を受け取りました。
Aさんは自己資金が無くても開業できましたし、
出資者は、配当を受け取って儲かりました。
めでたし。めでたし。
今の話のように、証券化とは出資話を作ることなのだと理解している。
つまり「儲かったら配当を渡します」という約束手形。
これが証券だ。
例のサプライムローン証券化も、これと同じ仕組みだったと思う。
「サプライムローンは高金利なので儲かります。
出資してくれたら配当を渡します。」
こんな具合だ・・
でも、これってメチャクチャあぶない証券じゃないか
だって
そもそもサプライムローンって
「米国の信用力の低い低所得者向けの住宅ローンで
審査が緩い代わりに金利は高い」
じゃなかったのか・・
高金利だから儲かるといったって
信用力の低い低所得者のローン
だ
上述のように
返済され「儲かったら配当を渡します」ということが
証券の配当の条件だとしたら
返せる見込みない低所得者のローンを証券化して
「利回りが高くで儲かる」債権として売っていたのだから
これって明らかに詐欺だと思う。
更に悪いことにサプライムローン証券であることが
分からないようにするために他のいろいろな証券と混在させて
あらたな証券として売っていたらしい・・
だから買う側(プロのファンドマネージャーでさえも)も
その商品(債権)のどこにリスクが存在するか
全くわからなくなっていたそうな・・
そういうことをするのが米国流の「金融工学」とやら
「学問?」だそうな
僕には欲に目のくらんだ
詐欺師達(金融関係の連中のこと)の「詐欺錬金術学」
にしか思えないが・・
それに比べると太陽光発電投資なんて
まさしく
「実業投資」
だと思う
リスクが分かり易く、ハッキリとしている
・キチンと発電するかどうか
・発電しない天候不順(悪天候)が続かないかどうか
・設備が稼働し続けるかどうか
・そして電力会社がキチンと売電のお金を約束通り振り込んでくれるかどうか
(これが一番のリスクだったりして・・笑)
等々・・
まだまだリスクはあるけど・投資信託なんかでファンドマネージャーが購入する
債権なんかよりはずっとリスクは分かり易く、
ハッキリとしていると僕は思う
株価なんかは上述のように
買いたい人が多ければ上がり、
売りたい人が多ければ下がるだけ
つまり
「人の心」によって変動するからハイリスク
だと僕は思う
なぜなら
人を最も裏切るのは「人の心」だ
と思うから・・
最近・・
NISAとかっていう「少額投資非課税制度」を利用した商品(証券)を
どこの金融機関も続々と売り出しているけど
少額だからといっても所詮は「投資信託」リスクは不明
三井住友なんか俳優の佐藤浩一をコマーシャルに出して
しきりに信用してくれって言わんばかりだけど・
佐藤浩一の人格と三井住友投資信託の信用は何の関係もない
でないか!
それに元本保証なし
信用しろ「信託」っていう割には
元本保証できないっていうのも虫の良い話だと僕は思う
金融機関はその元本保証できないっていうことでさえ
「元本和割れほとんどなし!」って変な誤魔化し方してる
としか思えないけど
どっちにしても元本保証はしないのが「投資信託」
それどほど彼ら(金融機関のファンドマネージャー)が
購入する証券のリスクが不明確ってことだと思う
それで今人気だというNISAとかっていう「少額投資非課税制度」を利用した商品(証券)
の回りはたったの1~3%だという
今、太陽光発電投資なら利回りは10%程度はある・・
もちろん初期投資額はかなり値を張るが・・
もし、僕にお金があれば、絶対に太陽光発電投資するんだけどなぁ・・
再生可能エネルギーの普及の一翼も担えるし、、
何せ、今の僕はほとんど文無しだからなぁ・・(/_;)
急性期脳卒中患者の3%が即座に自殺を決断???
以下の論文によると・・
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22000522
発症後4日以内の脳卒中患者177人について、
・15%の患者が自殺を考えた。
・さらにそのうちの22%は自殺を遂行するための
具体的な計画を持っていた。
分析の結果、これらの患者に共通する要因として、
・低い教育レベル
・糖尿病
・気分障害の既往歴
・脳卒中の後遺症の衝撃によるうつ病
が考えられた。
よって
急性期脳卒中患者の自殺行動に注意せよ!
ということらしい・・
それに比べて、僕は・・
急性期病院で・・
脳出血で倒れた1週間後・・
まだ左半身が「完全麻痺状態」でひとりで
ベッドから車椅子にも移れない状態にも関わらず・・
なんと・・
その病院の看護(師)婦さんに退院したら合コンしようと誘っていた・・(ーー;)
当時の僕は脳卒中の後遺症がこれほどまでに長引くとはつゆ知らず
あと、2、3週間もすれば元気になりピンピンして退院できると思っていたのだ
それにしても・・
あの合コンのお誘いを快く承諾していただき、更にはその病棟の
全看護(師)婦さんまで集めようと言ってくれたあの方は
今から考えると、
(到底不可能なことを知りながらあんな返答をしてくれたとは)
なんと、心優しい人だったのだと感心する。
それに引き替え、何とも無知だった自分がものすごく恥ずかしい・・
ワクワクして自殺どころではなかった・・・自分が・・(^_^;)
能天気な僕でした・・笑
なぜ死んではいけないのか。なぜ生きることが大切なのか
何気なく岡田斗司夫さんの「悩みのるつぼ」というサイトに
「どうして人は死んではいけないのか?」という質問と回答のページを見つけた
以下のURLだけど、内容をそのまま抜粋しよう
http://blog.freeex.jp/archives/51375852.html
----ここから---
「悩みのるつぼ」、今回はどうして人は死んではいけないのかずっと考えてきた18歳の女性から相談です。
「生きたくても生きられない人がいるのに贅沢よ」と言われても、自分の生死は人と比べる問題?と思います。
「死ぬ気になれば何だってできる!」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬことしかできないと私は思います。
なぜ死んではいけないのでしょうか。
***************************** 相談 ******************************
18歳の女性です。どうして人は死んではいけないのですか。ずっと考えてきました。
「自殺はだめだ」といいますが、なぜだめなのかを語る人はあまりいません。
周りの人が悲しむからですか。それなら、家族も友人もいない孤独な人は死んでもよいのでしょうか。
私は、机に死ねと書かれたり、教科書を捨てられたり、メガネを折り曲げられたり……といじめを受けたことがあります。
「デブで2倍の面積取るんだから学費2倍払えよ」とも言われました。
毎日「今日はどんなことをされるんだろう」と考えて胸がナイフでえぐられるように痛み、一日が終わり「今日はイヤなことは2つだけ、まだマシなほうだな」と思い、床につきます。
そんな日々で、死ぬ恐怖より生きる恐怖が上回り、死ぬことを真剣に考えました。
ビルから飛び降りようともしましたが、勇気がなく、とぼとぼと家に帰りました。
今はそれなりに立ち直っていますが、死にたい人の気持ちが分からんわけではないのです。
「生きたくても生きられない人がいるのに贅沢よ」と言われても、自分の生死は人と比べる問題?と思います。
「死ぬ気になれば何だってできる!」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬことしかできないと私は思います。
なぜ死んではいけないのでしょうか。
答えはない問いなのかもしれませんが、ご意見を伺いたいです。
***************************** 回答******************************
私には「死にたい」と思った経験がありません。
でも自分が犠牲になれば十~百人程度の人が助かる、という確証があれば「じゃあ仕方ない。死ぬかぁ」とイヤイヤながら決心すると思います。
その時に「死んじゃダメ!」って止められても「私の命だから、どう使おうと私の勝手」と答えるでしょう。
この例を「犠牲死」と呼びましょう。犠牲死をダメという人はあんがい少ない。「ひとりの命を犠牲にしても守るべきものがある。それはより多くの、または幼い命だ」という主張であり、死ぬことによって逆に「命の尊さ」を訴えるからです。
残された人たちも「この世界は生きるに価する,素晴らしい世界だ」と思えるので、死んだ人間やその家族・関係者以外はみんなハッピーになれる、「ベストじゃないけど、ベターな回答」です。
でも、あなたが本当に聞きたいのは犠牲死ではなく自殺です。
だから社会は自殺を許してはいけない。自殺したいほど辛い人には本当に申し訳ないけど、それを許すと社会の基盤が狂ってしまう。日常までが呪われてしまうから。
これが私の答えです。
「死にたい」と真剣に悩んだことのない私には、以上のような「論理的な回答」が限度です。
でも、あなたは自殺したいと毎日思うような日々を生き抜きました。私よりも、ずっと突き詰めた言葉が出せるはず。
あなたにはその問いに答える権利がある。きっとあなたの言葉なら、私より多くの命を救える。
ここから先はあなたの担当です。「それでも生きてるのが辛い。死んでもいいでしょ?」という問いに答えられるのは、あなたです。
私からのバトン、受け取ってください。
これから生涯考え、答えてあげてください。
2013年3月16日 朝日新聞掲載「悩みのるつぼより」
------ここまで-----
確かに難しい問題だと思う。
死んではいけない
生きることが大切だ
と言う人はごまんといるけれど
では
なぜ死んではいけないのか。
なぜ生きることが大切なのか
を的確に答えてくれた人を
(少なくとも僕は)見たことも聞いたこともない
この岡田斗司夫さんの回答でも僕は納得ができない
僕自身、脳出血で半身不随になり、何もかも失い
もう何度も死にたいと思った経験者だからだ。
岡田斗司夫さんの回答では以下のように言っている
自殺とは「この世の中に生きる意味や価値がない」
ということを、私の命を投げ捨てることで証明してやろう」という主張です。
なので
死ぬことによって「世界の無意味さ」を訴えてしまう。
こんなことされたら、生き残った側の人はすっごく迷惑です。
「いや、この世は生きる価値があるんだ」と反論したくても、
相手はもう死んじゃってるんですから、
とんでもなく気まずい気分がいつまでも晴れません。
自分とは縁もゆかりもない人が自殺した時に感じる不安や不快感の本質は、
この「究極のノーサイン」です。
自殺とは、残された人全員にとっては「呪い」なんです。
つまり、死にたくない人、僕なりの理解では「まだ死が怖い人」にとって
「迷惑」だ
そして
生きている人にとって「呪い」
だから
ということのようだ・・
でも
僕は違う答えを自分なりに持っている
死にたいと思っている人にとって
「この世の中に生きる意味や価値がない」のだと思う
かつての僕がそうだったから・・
半身不随になった僕はしばらくこの世の中に生きる意味や価値を見出すことはできなかった
なぜなら、健常者なら、必死で頑張って這い上がって、
もう一度「成功?」又は「復帰?」できたなら
一般的に憧れるような贅沢(世界のリゾートを回ったり、プール付きの大邸宅を建てたり等々)
をしようということがインセンティブになるであろう。
でも
僕はたとえ万が一経済的成功をして贅沢
(世界のリゾートを回ったり、プール付きの大邸宅を建てたり等々)
ができたとしても、
そこで楽しむことさえできない身体なのだ
身体は不自由なまま・・トイレでトイレットぺ―パーを切ることさえ苦労する
(実際、今でも公衆トイレでトイレットぺ―パーを「片手で」切るときには悪戦苦闘する)
ことには何の変わりもない
痛みも疼痛も死ぬまで続くだろう
だとしたら、
僕にとって経済的(経済的でなくても良いが)「成功」に何の意味があるのか?
どうやっての世の中に生きる意味や価値を見出せばよいのか全くわからなかった
当時の僕は生きる事は「苦」以外のなにものでもなかった
そんな
「生きる事は「苦」以外のなにものでもない」と感じている人に対して
或いは
「この世の中に生きる意味や価値を見出すことができない」と感じている人に対して
そういうことを考えたこともない
「ある意味この世の中に何らかの生きる意味や価値見いだせている」人が
「迷惑」だ
ということで苦しみながら「生きさせる権利」はあるのだろうか
それはまるで
拷問うをうけさせながら、それでも生きろと
言っているようなものだと思える。
そういう人にとっては「死は怖いもの」ではないと思う
僕がそうであるように・・
(僕の場合)死は障害者として「生きる苦」からの解放に他ならない
だから、僕ににとっても少なくとも「死は怖いもの」ではなくなっている。
年末久々に会った旧知の友人が僕に言った以下の言葉がそれを象徴しているように思う
「俺はお前が羨ましい、、俺はまだ死が怖い、人間いつかは死ぬ・・だから俺は怖い、
でもお前は死を受け入れることができている」
僕が死が怖くないのは
障害者になって5年、「死ぬことより苦しい生きる」というものを実感したからだ
もちろん僕だって死んだ経験があるわけでもないので
僕の体験が死のの苦しみより辛いのかどうかなんてわからない。
でも少なくとも「この世の中に生きる意味や価値を見出すことができない」期間があり、
死にたい
死にたい
と言ってたことは事実で、
そのときに健常者で「ある意味この世の中に何らかの生きる意味や価値見いだせている」人から
何を言われても
「お前にこの苦しみから俺を逃れさせない権利はあるのか?」
と思ったことは確かだ。
だから
今の僕は
死にたいと苦しんでいる人に
簡単に
死んではいけないのとか。
生きることが大切だ
とか言うことはできない
結局、死にたいと思う人と
そんなことを考えたこともない人とは
永遠に相入れないだけなのかもしれない
腹立たしいこと・・
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新緑がキレイ
今日、定期通院リハビリで六甲山の麓のいつもの
リハビリ病院に行ってきた
桜の季節もあっという間に終わり、
もう新緑の季節だ・・
あまりに新緑がキレイっだったの思わず、写真撮影
さすがマクロレンズ・・
新緑の芽が綺麗に撮れた・・
植物も「若い」って良いよな・・
ついでに隣に咲いていた花もパチリ!
これ、何の花かな・・
海の魚の名前なら知っているけど
今まで花なんかに興味持ったことないから何の花かわからん・・
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記憶は亡霊・・
些細なことである・・
夢を見た・・
電車の切符を購入しようと
「両手で」財布を開いて千円札を取り出そうとした
ふとそのとき
あれ?僕って両手が使えないはず・・
どうやって財布から千円札を取り出せば良いんだろう・・
いや、取り出していたんだろう・・
と悩んでいる・・
いくら考えても思い浮かばない・・
このままじゃ切符が買えない・・どうしよう
ケッタイな夢だ
考えに考え、必死で思い出そうとしてやっと思い出した。
そうだウェストポーチにお金を入れて右手だけで取り出していたんだ!
とやっと思い出す。
それを思い出したと同時に・・
そうだ、僕は脳出血で半身不随になっていたんだ
だから財布さえ「両手で」開いてお金を取り出せなくなり
仕方なくウェストポーチにお金を財布代わりにするようにしたんだ
と自分が半身不随になっていた事まで気が付くという
けったいな夢・・だった
それでも自分が半身不随になっていた事に気が付いた瞬間
何とも言えない哀しい気分になった・・(たぶん誰にもわからない気持ちだろう)
その瞬間まで僕は(夢の中では)健常者だったのだから
僕の潜在意識の中にはまだまだ「自分が健常者だった頃の」記憶があり
そしてそれは一生消えないのだろう
それは僕にとって、記憶は亡霊でしかない・
いくら現実の世界で障害者と自認していても
潜在意識の中まではコントロール不能だ・・
いつもベタ踏み・・
いつも不自由で
いつも痛いと・・
心を前向きにするのに
前向きにまでできなくとも
平常心を保つだけで常に
心にモチベーションを与え続けなければいけない
モチベーションを上げるにはいわゆる「人参」が必要
目の前に「人参」がぶら下がっていりゃ
モチベーションも上がるけど
いつもいつも「人参」をぶら下げてくれるわけじゃない
たとえ「人参」がなくてもモチベーションを上げつづけなければならない
少しでも気をゆ緩めると
不自由と痛みの苦しさで
心が萎えて奈落の底に落ちてしまいそうだから・・
だから僕はこの5年間
自分の心へモチベーションを与え続けていたように思う。
それこそ果てしない坂道を上っているように
いつもアクセルベタ踏み・・
いつまで続くかな・・
このコマーシャルじゃないけど・・
はい、僕の心はいつもベタ踏みです(苦笑)
思うがままにできない事を思うがままjにしようとして結局思うがままにできず人は苦しむ
苦とは・・
思うがままにできない事を思うがままにしようとして人は苦しむ
それは一個人にとっては「病・老・死」だけど
国家にとっても同じようなことで苦しんでいる
とを僕は感じる。
今、原発再稼働するに当たって、
各原発の場所における「基準地震値」を
どうするかが決まらないから
原発再稼働の決定ができないそうだ。
そもそも各地域における地震の予測
(時期だけでなく規模も)ができないことは
・阪神大震災の予測をできず、
・東日本大震災の予測さもまったくできなかった
という事実からもう判明している。
にも関わらず、
今、各原発の場所における「基準地震値」を「予測」しようとしている。
そんなもん無理に決まっているじゃないか
あえて予測するなら、
日本全国各地どこにでも
東日本大震災のようなマグニチュード9クラスの
地震は来るという「基準地震値」を
ベースに再稼働するか否かを決定すればいいじゃないか
だって事実なんだから、、
でも、それでは再稼働不可になるから、
なんとか「基準地震値」を下げたい
という潜在的且つ希望的思惑で
「基準地震値」などというものを
決めようとしているから何も決まらない。
この状況は
「地震の予測」という
思うがままにできない事を思うがまにしようとして
結局、思うがままにできず
苦しんでいるように感じる
その一方で
メディア(特にNHK)では
今、南海トラフ地震が起きると
無責任に煽っている
何の根拠もない
NHKなりの根拠は
「南海プレートの沈み込みでエネルギーが今溜まっているから・・・」
だそうだ
もう50年も前から同じことを(自称)地震学者は言い続けている
それで
実際に大地震が起こったのは
南海プレートの沈み込みにも、東海プレートの沈み込みにも
全く無関係な阪神大震災(これは10万年に一度程度起こる活断層のズレが原因)
と
東日本大震災(地震学者によると想定外の場所断層のズレらしい)
だ
それまでは最も大地震発生確率が少ないとされていた(していた)から
「想定外」というしかないだろう。
結局、地震なんて何の予測も想定もできない
なのに地震予測という
思うがままにできない事を思うがままjにしようとして結局思うがままに
できず皆苦しんでいるだけに他ならない
と僕は思う
と少なくとも僕は思うのだが・・
もう地震予測なんて止めにしたら?
そして地震予測のため
に国民の税金から巨費を投じるのも止めた方が良い
地震学者たちはその「巨費」をもらえるから
「予測不能」とは口が裂けても言えないだけでは?
ディスクローズ
以前、
情報は隠すことで価値が上がる
と僕に言っていた人がいる。
いわゆる女性の「チラリズム」のようなものであろうか・・・笑
まぁ冗談はさておき
僕は学卒後、とある化学メーカーの研究室に勤務した。
企業の研究室なので特許検討会なるものがあり
競合他社の特許を徹底的に調べ上げ、
参考になる特許情報は模倣して
製品ラインのプラント開発に活用したりしていた
ちなみに僕は勤務中に28件の特許を出したけど
当時の研究室部長がこんなことを言っていた
最も重要な核心部分は特許申請するな・・
と
なぜなら特許申請すると公開特許になった段階で
他社に模倣されるからだという
化学メーカーのプラント技術の特許なんて
他社が模倣しているかどうかなんてわからないからだ
競合他社に同じような品質の製品ができたとしても
その製造プラント工程が自社を模倣しているかなんて
調べようがないからだ(競合他社の工場内に立ち入るわけにもいかない)
だから、
重要な情報は特許出願にせず隠せ!
ということだった。
当時は、そういうものかな、、
などと思っていた
でも今僕はこのような考え方は違うと思っている。
情報は開示した方が長期的にはメリットがあると確信を持っている
一時的には模倣して、「まがいもの」を作る連中が出てくるであろう
でも、そういう「まがいもの」は所詮「まがもの」だと思う
技術の本質を知らずに、作ったものだから、そこから先の「発展」がない
だから
ディスクローズすることで
模倣されることを恐れてはいけない
と思う。
今、僕がいっしょにパートナーさせて頂いてい
る太陽光発電所事業を進める方は
オープンもオープン
開発した太陽光発電所の内容を
全てディスクローズしている。そ
こまで情報開示するか・・と思うほどに・・
でも、不思議なことにこの情報開示が「信頼と信用」に繋がり
様々な支援者が集まってくるのだ。。
結局、情報開示することにより
模倣されるどころか
支援者が集まることにより、
よりブラッシュアップされてくるのだ
模倣されることのデメリットより、
支援者が集まることのメリットの方がはるかに大きい
その結果、情報開示しても他社に真似のできない
高い水準の技術を持つ事ができるようになってきている
そんなことからも
人間は相互依存しているのだな・・と感じる
情報を隠して、自分だけ利益を得る
また、或いは特許として他社に使わせない
一時的にはそれで競合に勝ったかのように
感じるかもしれないけれど
それは結果として、
「ひとりよがり」
であり
相互依存関係を構築できず、
いわゆる
WIN-WINの関係
を構築できず
ひとり脱落していくのではないかと思う。
今、僕はそのパートナーと次の段階として
太陽光ではなくあらたな事業として
風力発電事業を進めようとしている。
このときもそのパートナーの
何事も隠さない姿勢のおかげで
風力発電システムのメーカーと情報共有でき
結果として、
これまで見えていなかった
風力発電システムの解決すべき
(おどろくべき)問題点(課題)が明確になった。
正に意外な問題点(課題)だった。
それもこれもパートナーのオープンな姿勢のおかげで
メーカーも次第にオープンになり
結果として分かった課題だと僕は思っている。
ディスクローズって
勇気が必要だけれど、
ディスクローズって
何か盗まれるような「錯覚」で怖いけど
一度ディスクローズしてしまえば、
得るものは大きいと思う
僕自身、
このブログで自分自身を限りなく
ディスクローズしているつもりだ
そのことによって得たものは大きいと思っている
多くの出会いがあり、
そして今の自分がいる
ここで自分をディスクローズしたことで
人は一人では生きることができない、
自分は相互依存の中で初めて生きていける
いや、生かされいるのだということに
気付かせてくれたような気がする
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痛いな・・
痛い・・
いつまで痛いんだろう・・
ずっと痛い・・
歩くのだって
自宅の階段上るのだって
右手で手摺を掴まって
一歩、一歩
足元を目で見ながら
足が一段上がったことを確かめないと登れない
まるで90歳近い年寄りのよう・・
何より痛い・・
いつまで痛い
どこもにも傷も腫れもないのに
痛い・・
何より痛かったのは
昨夜、息子に
泳ぎを教えて欲しかったな
そしていっしょに泳ぎたかった
って
言われたとき
心が痛かったな
僕が昔、水泳選手だったこと
県大会2位まで行ったこと
息子なりに誇りに思ってくれていたんだろうか
だから突然泳ぎを教えて欲しいなんて言ったのかな
僕だけでなく息子残念なんだろうな・・
でも、もうどうしようもない
それにしても
痛いな・・朝っぱらから・・
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相互依存・・人(あらゆる生き物)はひとりでは生きることはできない
僕は障害者になってから
「ひとりで生きる」ことは不可能になったと思った。。
「介護」とまではいわなくても、あらゆる場面で「介助」が必要になることが多々ある
こんなとき
人はひとりでは生きることはできない
ということは痛感する
と同時に
人間だけでなく、この世のあらゆ生き物さえも
「ひとり」では生きることはできないと感じる
それは「相互依存」なしでは生きていけない。。
突き詰めて考えると
その「相互依存に残酷な世の中の矛盾を感じる
なぜなら
人(だけではなくあらゆる生命体)は食べ物を食べないと生きていけない
その食べ物とは全て「生き物」だ、
つまり「命」だ
あらゆる生命体)は他の命を食らうことでしか生き残れない
自分が生き続けるためには他の命を奪うしかない
たとえば、ライオンなどの肉食動物はシマウマやヌーなどの草食動物
の他の命を奪わないと生きていけない。
そんな意味で
ライオンなどの肉食動物とシマウマやヌーなどの草食動物は
「相互依存」関係なのだ
つまり「食うか食われるか」の「相互依存」関係なのだ
人間だって例外ではない
例外ではないどころか
他のどの生き物よりも人間以外の命を奪い自分たちは生き続け繁栄を謳歌している
その意味では人間と人間にく食われる全ての生き物(植物も厳密には生き物だから)
とは「相互依存」関係(食うか食われるか)の関係にある
僕だって、現代文明がなければ、とっくの昔に障害のある(抵抗のできない)生き物として
肉食動物なんかに食われていたのだろうなどと思う。
しかし、その生き物自体無限に存在しているわけではなく、
この地球が有限である限り、有限であり、
今の地球上増殖し過ぎた全ての人間を生き延びさせられるだけの命(生き物)はもういない
もうとっくの昔に枯渇しているのかもしれない
だとしたら
人間は自分たちが生き延びるためには他の残る命(つまり他の人間の命)を奪うしか
生き残る術はない
これ厳然たる(残酷ではあるが)真理であると思う
だから、どんなに共存共栄などとキレイ事を言っても物理的に不可能なのだ
そんな矛盾に満ちた世の中に我々は生きていると思う
だからどうすれば良いか?
ぼくには正直分からない。
ただ一つ言えることは、
自分の身を、自分の親兄弟、家族を守るために最大限できる事をやるしかない
それがどんなに残酷なことであっても
たぶん、やらなければならないのであろう。。
でなければ、生きてはいけないから・・
もしくは・・
生への執着を絶つこと以外に方法はないだろう。
人(あらゆる生き物)はひとりでは生きることはできないから
相互依存しなければならないと言う
でもその相互依存って「食うか食われるか」という残酷なものではないか