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Channel: 半身不随になった元IT系社長の独り言
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死後、あの世、神等々について思う事

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ちょっと前に書いた生存の欲求のテーマの記事でも書いたけど、


僕は永遠の魂なんて存在しないと思うし、

そんなものがあってほしくないと思っている

この記事を書いて以前にも同じようなことを書いたことを思い出して、

もう一度それを見ながら

あらためて自分なりの死生観を整理してみた。

きっと

僕は死後にあの世なんて存在せずに、

無になった方が絶対に楽だと考えている。

あの世という世界を考えたのは


人間は自分が死んだとき、


自分の「意識」までも消滅するとは考えにくい


からだと思う。

それと同時に自分の意識が消滅するということを

想像することが難しいと同時にある意味

恐怖感を抱くからではないかと思う。


でも僕は違う。


僕が

「あの世なんて存在しない方が良い」

「死後に魂なんて起こらない方が良い」

などと考えるようになったのは、

脳出血で障害を負った当初、


「自分は何の役に立たない人間になってしまった」

という思い駆られ

自暴自棄になってしまったことがきっかけだ。


自宅に居ても常時ベッドに寝ているだけ・・


1日24時間天井を見ながら過ごす日が続いた。。。


このとき味わった強烈な「孤独感」。。。



この孤独感というものは地獄だった。


(多分味わったことのない方には理解し難いと思う)


役に立たない人間になってしまったのではないかという

なんとも情けない恐怖に近い感覚を同時に

人とのコミュニケーションが絶たれる状態だった。

こういう状態というのは

想像を絶するほど辛かったものだ。


このときに思ったのだ。


死後、肉体が滅び、

「魂」とかいうものだけが残ったとしたら

この状態と同じ状態ではないだろうか

「魂」には意識だけは存在するけれども、

生きている実在の人間とは

何のコミュニケーションもとることができない。

つまりは、

愛する人「妻や子供」ともコミュニケーションが取れないという状態。。

声をかけることさえできない。

そして何の役にも立てない。

そんな状態ではないだろうか。


しかも「永遠に」続く。。。

そんなのは絶対に嫌だ!辛すぎる。

そう思ったのだ。

そんなことだったら、

いっそ「無」になった方が楽だと思った。


それは、孤独というものの

本当の辛さを始めて味わった経験だったと思う。


健常者の頃でも、

「孤独感」を味わったことはあると思うけど、

それはあくまでも『感』であって

本当の意味での孤独ではなかったことを

そのとき理解した

「これが本当の孤独か」と感じたものだ。


昔、手塚治虫氏の書いた「火の鳥」の

第2巻未来編の以下のシーンを:を思い出した。


死ねない






そのストーリーの中では、

西暦4000年くらいの未来に地球が全面核戦争で、

滅亡してしまうという設定で、その中の主人公にあたる人が、

人類でただ一人だけ火の鳥に永遠の命を与えられてしまう

というストーリーだった。

彼は何をしても死ねない身体にされてしまった。



そしてその彼は、「火の鳥」から再び地球が

再生しさらに再びそこから生命が誕生し、

進化して人類が現れるまで地球を見守るという

役割を与えられてしまうのです。

その時の彼は地球上で、

自分一人が生き残ってしまった。

でも誰ともコミュニケーションがとれない
という

ことに苦しむ姿が描かれていました。

死後に魂(意識)が残ってしまう

ということは

こういう状態に近いのではないだろうか

だからこそ「無」になった方が楽だとぼくは考える。

死が無ならその方がずっと楽だと思うのだ。

いや今生きているこの瞬間でさえ、

「無」つまり自我(自分の意識)が存在しない方が

楽だと思うようになっている。

生きている限り、その境地(無我とか涅槃の境地)になる

ことはほとんど不可能だと思う。


あの釈迦でさえそれを目指し、「悟りの境地」には至ったが

いわゆる涅槃の境地まで至っていなかったという

本当に「自我」をなくし、

「無心」

つまり、煩悩や私心をゼロにするためには

死」しかないのではないだろうか。


僕自身そんな境地にはなれないとはわかっていても、

(この障害者と言う苦しみから逃れるために・・)

限りなく自我がゼロに近い状態になりたいと

努力したいと思っている。

そうなることができれば

どんなに幸せだろうと考えている。

そうなることができれば

世の中の事象(自分の体の表面さえも)を

限りなく私心なく捉えることができ、

怒りも悲しみも障害の苦しみも


自分の心の中から排除できるのではないか

感じるからだ。


そんな意味で


「無」になることこそ


ある意味では最高の幸せではないのか


障害者として生きている現世が苦しいから


死後くらい「無」でありたい


と思うわけです。


これは決して

宗教を否定しているわけではありません。

(ほとんどの宗教が死後の世界の存在や神の存在を前提にしていると思うから、
 攻撃していると思われると困るので・・)

宗教を信じている方は

その宗教によって、

心の安寧を得ることができればそれで良いと思うのです。

僕はたまたま、

「せめて死後くらいは」

自我も完全になくなり、

「無」になれて「苦」から解放されるのだ

を考えることによって

心の安寧が得られるから、

そう考えているだけなのだ。



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