喜怒哀楽なんて・・
よく喜怒哀楽があるから人間だとか
喜怒哀楽がないとにんげんらしくないとか
言う人がいるけれど
僕に言わせれば
そんなものは
本当に心底苦しんだことや悲しみを知らない人の言うこと
だと思う。
未だに僕は自分が半身不随の障害者であることが
信じられないことがある・・
そんなとき本当に苦しいし、悲しい
なぜ僕が?
と思ってしまう。
そんなこと思っても仕方のないことだと分かっていても
そんなこと考えたら苦しむことが分かっていても
所詮は生身の人間だか考えてしまう
そして苦しみ、悲しむ
馬鹿だなぁって思う
どうせなら「自分」なんて存在しなきゃ良いのに・・
以前から書いているように「自我」さえなかったら
どんなに楽だろうと思う
「自我」はプライドの根源
「自我」はこだわりの元
こだわりは執着
執着心こそ苦しみの根源
僕の場合、
現状な頃の自分への執着だ
そんなこだわりもなく、執着もなく
ただ、左腕が動かなければ、右腕を使えばよいと考え
左腕が動かないことに悲しむことも怒りに満ちる必要もない
左脚が痺れ、痛み、普通に歩くことができないのなら
今は歩かず、休み、
痺れや痛みが引くまでジっとしていれば良い
もしくは薬を服用して痺れや痛みが引くまで待って
それから、
ゆっくりと動作し始めればそれでよい
それで約束の時間に間に合わないのであれば
事前に遅れると連絡を入れればそれで済むことだ
それなのに
以前のフットワークの良かった謙譲な頃の自分の比較して
そんな昔の自分に種着し悲しみ、怒りを覚える
そんな自分も馬鹿だなぁって思う
それもこれもすべては「自我」のせい・・
「自我」があるから苦しむ
そんなとき僕は「無私無欲」と唱えるようにしている
それででき得る限り「自我」を捨てる努力をしてみる
そうすることで
余計な怒りや悲しみにとらわれず、
ただ淡々と、今この身体でできない事は
できるように工夫するだけ・・
そこには何の悲しみも怒りも、、そして(病気への?)憎しみの感情もなく
ただ淡々と目の前のやるべきことをやれるようにするだけ
今、この瞬間、タイピングしていても
片手タイピングんだから以前のような両手タイピングを(思い出し)
執着すると、ミスタイプするたびに(潜在的な怒りと悲しみで?)イライラし
イライラすると余計にミスタイプが激しくなる
こんないイライラしそうになったときも
「無私無欲」と唱えながらただ淡々とミスタイプしたら
修正すれよいだけ、打ち直せばよいだけ
イライラする必要も悲しくなることも、怒ることも
そんな必要はどこにもない
それは
「自我の「心」が勝手に身体の動きまで惑わせているだけ・・・
だから「無私無欲」と唱え極力「自我」をなくそうと努力する
僕にとって「自我」からくる喜怒哀楽なんて生きるのに邪魔なだけかもしれない
最近、某タレントさが覚せい剤に溺れたり、
うつ病で苦しんで自らの命を断つ若者多いと聞くけれど
それもこれも「強い自我」がプライドやこだわりから
自尊心を守ろうとして守りきれ苦しみ、
薬に手を出し、
自らの命を断つ・・
そんなことじゃないのだろうか
「自我」とそこからくる人間の喜怒哀楽なんて
人が生きるために邪魔なものでしかないと感じる。
「自我」からくる自尊心を傷つけられ、争いになり
結果として惨い戦争になる
そんなことが世界中で今起こっておるような気がする・
結局、自分「自我」(自分のこだわりや信条とか)を守るために
自分と違う他者を攻撃し、傷つけ、
結局あとで「報復として」自分も傷つけられる
人間の「自我」なんて「喜怒哀楽の人間らしいもの」なんて
甘いものではなく、もっと人間にとって惨いものではないだろうか
と思う
だから少しでも「自我」を捨てたいと僕は思う
「自我」こそが自分だけでなく、
他人をも苦しめ、気付けてしまう根本原因のような気がするから・・
よく喜怒哀楽があるから人間だとか
喜怒哀楽がないとにんげんらしくないとか
言う人がいるけれど
僕に言わせれば
そんなものは
本当に心底苦しんだことや悲しみを知らない人の言うこと
だと思う。
未だに僕は自分が半身不随の障害者であることが
信じられないことがある・・
そんなとき本当に苦しいし、悲しい
なぜ僕が?
と思ってしまう。
そんなこと思っても仕方のないことだと分かっていても
そんなこと考えたら苦しむことが分かっていても
所詮は生身の人間だか考えてしまう
そして苦しみ、悲しむ
馬鹿だなぁって思う
どうせなら「自分」なんて存在しなきゃ良いのに・・
以前から書いているように「自我」さえなかったら
どんなに楽だろうと思う
「自我」はプライドの根源
「自我」はこだわりの元
こだわりは執着
執着心こそ苦しみの根源
僕の場合、
現状な頃の自分への執着だ
そんなこだわりもなく、執着もなく
ただ、左腕が動かなければ、右腕を使えばよいと考え
左腕が動かないことに悲しむことも怒りに満ちる必要もない
左脚が痺れ、痛み、普通に歩くことができないのなら
今は歩かず、休み、
痺れや痛みが引くまでジっとしていれば良い
もしくは薬を服用して痺れや痛みが引くまで待って
それから、
ゆっくりと動作し始めればそれでよい
それで約束の時間に間に合わないのであれば
事前に遅れると連絡を入れればそれで済むことだ
それなのに
以前のフットワークの良かった謙譲な頃の自分の比較して
そんな昔の自分に種着し悲しみ、怒りを覚える
そんな自分も馬鹿だなぁって思う
それもこれもすべては「自我」のせい・・
「自我」があるから苦しむ
そんなとき僕は「無私無欲」と唱えるようにしている
それででき得る限り「自我」を捨てる努力をしてみる
そうすることで
余計な怒りや悲しみにとらわれず、
ただ淡々と、今この身体でできない事は
できるように工夫するだけ・・
そこには何の悲しみも怒りも、、そして(病気への?)憎しみの感情もなく
ただ淡々と目の前のやるべきことをやれるようにするだけ
今、この瞬間、タイピングしていても
片手タイピングんだから以前のような両手タイピングを(思い出し)
執着すると、ミスタイプするたびに(潜在的な怒りと悲しみで?)イライラし
イライラすると余計にミスタイプが激しくなる
こんないイライラしそうになったときも
「無私無欲」と唱えながらただ淡々とミスタイプしたら
修正すれよいだけ、打ち直せばよいだけ
イライラする必要も悲しくなることも、怒ることも
そんな必要はどこにもない
それは
「自我の「心」が勝手に身体の動きまで惑わせているだけ・・・
だから「無私無欲」と唱え極力「自我」をなくそうと努力する
僕にとって「自我」からくる喜怒哀楽なんて生きるのに邪魔なだけかもしれない
最近、某タレントさが覚せい剤に溺れたり、
うつ病で苦しんで自らの命を断つ若者多いと聞くけれど
それもこれも「強い自我」がプライドやこだわりから
自尊心を守ろうとして守りきれ苦しみ、
薬に手を出し、
自らの命を断つ・・
そんなことじゃないのだろうか
「自我」とそこからくる人間の喜怒哀楽なんて
人が生きるために邪魔なものでしかないと感じる。
「自我」からくる自尊心を傷つけられ、争いになり
結果として惨い戦争になる
そんなことが世界中で今起こっておるような気がする・
結局、自分「自我」(自分のこだわりや信条とか)を守るために
自分と違う他者を攻撃し、傷つけ、
結局あとで「報復として」自分も傷つけられる
人間の「自我」なんて「喜怒哀楽の人間らしいもの」なんて
甘いものではなく、もっと人間にとって惨いものではないだろうか
と思う
だから少しでも「自我」を捨てたいと僕は思う
「自我」こそが自分だけでなく、
他人をも苦しめ、気付けてしまう根本原因のような気がするから・・